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ブッダが見つけた四つの真実 Original Title   :WHAT MAKES YOU NOT A BUDDHIST

  • 2024年10月18日
  • 読了時間: 11分



著者紹介


ゾンサル・ジャムヤン・ケンツェ


 1961年、ブータンに生まれる。現代において仏教の道を歩むための書を著している


概要

 世界三大宗教の1つで、今や西洋でも広く信仰される仏教。その本質をわかりやすく説いた書だ。仏教の基本概念は〈四法印〉と呼ばれ、「諸行無常」「一切皆苦」などの言葉で知られるが、初心者には理解しにくい。


 これらの概念を、難しい仏教用語を使わず語る。著者はブータン生まれ、世界を股にかけ、仏教の普及に努める人物。

 


要約


すべてのものは無常である


 仏教の本質は、非常にシンプルである。にもかかわらず、それを説明するのは容易ではない。


 ブッダとは仏教における「神」である、と多くの人が誤解している。ブッダはもともとゴータマ・シッダールタという名の普通の人間であった。天上の存在ではない。


 そして仏教徒とは、次の4つの真実を受け入れた者のことをいう。


・組み合わせによって成り立つすべてのものは無常である。


・すべての感情は苦しみである。


・すべてのものは本質的には存在しない。


・涅槃とは概念を超越したものである。


 これら4つの言葉はブッダ自身によって語られたものであり、「四法印」として知られている。これらの四法印を受け入れる人は皆、ブッダと同じ道をたどっていると考えることができる。


ブッダが見つけたもの


 ゴータマ・シッダールタは菩提樹の下に広げたクシャの葉の上に座り、人間の本質を探った。長い黙想の後、彼はある結論に達した。


 それは、私たちの肉体や骨を含むすべての形あるもの、そして私たちのすべての感情や知覚は、組み合わせによって成り立っているということだった。つまり、それらは2つ以上のものが一体となることで出来上がっているのである。


 2つ以上の構成要素が一体となった時に、新しい現象は現れる。釘と木はテーブルになり、水と葉はお茶になり、恐れと信仰心、そして救世主は神になる。


 この最終的な産物は、それを構成する部分から独立しては存在できない。それと同時に、部分部分は変化をとげている。部分と部分が出会うことでそれらの性質は変化し、それらが一体になることでまた別のものへと変容するのである。


 彼は、このことが人間の経験のみならず、すべての事柄や世界全体、そして宇宙にも当てはまることに気づいた。


なぜなら、あらゆるものが相互に依存しており、変化をとげるからだ。それだけで独立して、永遠に、純粋な状態で存在する要素は、森羅万象において1つもない。


 こうして、シッダールタは「無常」というものが私たちの通常考えるような死ではなく、変化を意味することを発見した。


 これらの気づきにより、シッダールタは死ぬべき運命にあることの苦しみを回避する方法を見いだした。彼は、変化を避けることはできず、死は繰り返される変化の一部にすぎないことを受け入れたのである。


 さらに、死ぬ運命を覆せるような絶対的な力を持つ者が存在しないことも理解した。従って、希望という罠にはまることもない。なぜなら、盲信的な希望がなければ失望もないからである。


 すべてが無常であることを知っていれば、何かをつかもうとはしないだろう。そうして初めて、人は満ち足りた生き方ができるのである。


 シッダールタは、永遠という幻想から目覚めた。そのことから、私たちは彼のことを、「目覚めた者」を意味するブッダと呼ぶ。


無常を知ればとらわれがなくなる


 あらゆる現象が組み合わせで成り立っていることを意識していると、物事が相互依存の関係にあることがわかる。この相互依存性を理解することによって、私たちは無常を理解することができる。


 そして、万物が無常であることを覚えていれば、憶測や信念、様々な価値観、盲目的な信仰といったものにとらわれにくくなる。個人的、政治的、あるいは恋愛の場面において、必要以上に感情的にならずに済む。物事は100%、思い通りにはならないし、今後も決してそうなることはないということがわかり始め、物事が私たちの希望や恐れの通りになることも期待しなくなる。


 この世に存在するものや機能するものはすべて、永遠に同じ状態を保つことはない。あなたが絶望的になっていたとしても、このことを思い出せばもう絶望する理由はない。なぜなら、あなたを絶望させている原因もまた変化するからである。


感情と痛み


 シッダールタは、苦しみをその根本から断ち切ろうとした。そして、たゆみない瞑想を通じ、根本のところにおいて苦しみが私たちの感情から生じていることを発見したのである。それどころか、感情こそが苦しみなのである。


感情は一種の偏見である


 感情には自己への執着が関与している。この意味において、すべての感情は何らかの形で必ず利己心から生まれている。


さらに彼は、感情は私たちに生来的に備わっているものではないということも発見した。感情は、ある特定の原因と条件が合わさった時に起こる。


 例えば、誰かに批判されているとか、無視されているなどと早とちりすると、それに応じた感情が生じる。そしてそれらの感情を受け入れ、その感情に巻き込まれた瞬間、あなたは正気を失う。「興奮して頭に血が上った」状態になるのだ。


 あなたが苦しみを滅したいと願うのであれば、自分の感情に注意を向け、頭に血が上った状態になるのを避ける術を学ばなければいけない。


 感情をよく観察し、その源を特定しようとすれば、感情が誤解に基づくものであって、それゆえ根本的な欠陥があることに気がつくはずである。


どの感情にも必ず判断の要素があり、従ってすべての感情は基本的には一種の偏見なのである。

根源を探る ――(存在しない)自己


 俗世には数えきれない種類の感情が存在する。誤った判断や偏見、無知に基づいて、毎瞬毎瞬、数限りない感情が生み出されている。愛と嫌悪、罪の意識、悲観、恐れ、悲しみ、喜び…。


 これらの多種多様な感情とそこから生じてくる結果は、すべて誤解に由来する。そしてこの誤解は、あらゆる無知の唯一の源 ―― 自己への執着から生じる。


 私たちは、私たちの1人1人が自己であって、「私」という実体があると思い込んでいる。しかし、この自己もまた1つの誤解でしかない。


 シッダールタは、からだの内にも外にも、自分と呼べるような独立した存在がないことに気がついた。自己もまた錯覚なのである。自己とは、究極的には存在しない、誤った信念なのである。


 しかし私たちは、私は自分であるという考えに心を奪われている。私たちは、自分のからだ、気持ち、知覚、行動、意識などが、私たちが「私」と思っているものを形作っていると思っている。


 しかし、よく観察してみると、それらのどこにも「私」は存在していないことがわかる。自己という誤った考えに執着するのは、無知に基づく愚かな行為であり、あらゆる痛みと失望をもたらす。


 このことは、私たちの存在すべてが大変もろい前提の上に成り立っていることを意味する。


 シッダールタは、自己はないということを発見した瞬間に、本質的に存在する悪というものはなく、ただ無知があるのみだということも理解した。


 彼は、「自己」というラベルを作り、それに重要性を持たせ、それを守るために苦しむという無知について深く考えた。そして彼は、この無知こそが、苦しみと痛みに直結するものだと理解した。


 無知とは、単純に事実を知らないこと、事実に対する思い違い、不十分な知識しかないことのいずれかである。これらの無知の形態は、どれも誤った理解や解釈、過大評価や過小評価をもたらす。


すべては空性である


 シッダールタは、すべてのものの実体が空であることを理解した。私たちが見て、聞いて、想像して、存在すると確信しているものはすべて、私たちが「真実である」というラベルを貼りつけただけで、その本質は空であることを理解した。


空性をとらえようとする


 私たちは、遠くに青々と茂ったオアシスを見る、方向感覚を失った砂漠の旅人のようにさまよう。そのオアシスは、実際には砂上の熱による反射光でしかない。しかし、必死さと喉の渇き、そして期待が相まって、放浪者はそれを水と見なしてしまう。そして、そこへたどり着くために最後の力を使い果たした彼は、それが単なる蜃気楼であることを知り、失望感でいっぱいになるのである。


 私たちは、自分には教養があり、地に足がついていると思っている。しかし、すべてのものが本当に存在していると考える時、私たちはこの砂漠の男と同じように振る舞っているのである。


 私たちは、本物の友情や安定、人からの評価、成功、あるいは平穏を急いで手にしようとする。しかし、この放浪者のように見せかけだけの現実に頼っていると、結局は失望することになる。物事は見かけ通りではない。それらは無常で、私たちがコントロールできるものではないのである。


ネクタイ、そして感情の輪縄


 仏教では、空性は古くから蛇のたとえを用いて説明されてきた。


 ジャックという名の臆病な男がいた。彼は薄暗い部屋に足を踏み入れ、蛇がいるのを見てパニックに陥る。だが、彼が実際に見たのはネクタイだ。


それを蛇だと思い込んでいる間、彼が経験する苦痛と不安は、仏教徒が「輪廻」と呼ぶものである。それは、心が陥ってしまう一種の罠だ。


 ジャックにとって幸いなことに、彼の友人ジルが部屋に入ってくる。ジルは冷静なので、ジャックが蛇を見ていると思っていることがわかる。彼女は明かりを点けて、それが実際にはネクタイであることを説明する。


自分が安全な場所にいると確信した時にジャックが経験するこの安堵こそが、仏教徒が「涅槃」と呼ぶものである。


 涅槃とは、解放と自由を意味する。しかし、ジャックの安堵は害を避けることができたという誤った考えが基になっている。実際には蛇も、彼に苦しみをもたらすものも、初めから存在していなかったのである。


 私たちの人生における日々の体験は、不確実さ、不安、感情であふれ、蛇のように私たちに巻きついている。私たちの期待や恐れは闇と影を創り出し、蛇の幻をよりいっそう鮮明にしている。


 シッダールタの教えの唯一の目的は、私たちのような臆病者が、自分たちの苦しみや被害妄想がすべて幻に基づくものであることを理解する手助けをすることにある。


涅槃とは概念を超越したものである


 シッダールタは、自己への執着に打ち勝ち、彼岸、つまり輪廻の向こう側に到達した。


 彼が至ったこの境地は涅槃と呼ばれている。


天国 ―― 究極のバカンス?


 涅槃、悟り、解放、自由、天国 ―― 多くの人はこういった言葉を口にしたがるが、こういった境地に入るとは、どういうことか?


 私たちが想像する天国と涅槃の特徴はだいたい同じである。天国や涅槃は、私たちが長年にわたって責務を果たし、修行をし、善良な市民として生きた後、死んだ時に行くところであると私たちは思っている。そこはすべての「良い」死人たちが集うところなので、私たちは多くの旧友たちと再会を果たすはずだ。


 しかし、シッダールタは、このような死後の世界が空想の産物であることを見いだした。


幸福はゴールではない


 シッダールタにとって、天国や涅槃といった究極の休息地はどこかにある場所のことではなく、思い込みという名の拘束衣からの解放を意味する。


 シッダールタが目指したのは、幸福になることではなかった。彼の道は、最終的に幸福へとつながるものではない。むしろそれは、苦しみからの解放、つまり思い込みと混乱からの解放に直接つながる道である。従って、涅槃とは幸福のことでもなければ不幸のことでもなく、そういった二元的な概念のすべてを超越したものなのだ。


 涅槃とは安らぎである。シッダールタが仏法を説いたのは、蛇への恐れに苦しむジャックのような人々を完全に解放するためである。こうした苦しみを取り除き、そもそも苦しみの原因が本質的には存在していなかったことに気づくように手助けをすることがシッダールタの目的なのである。


 単に真実を理解するだけで悟りは成就される、ともいえるかもしれない。私たちは、真実を理解した分だけ悟りの段階を進んでいくことができる。すべては自分の創造物に過ぎないと気づいた時、あなたは自由になるのである。


まとめ


●ブッダは、天上の存在ではない。ゴータマ・シッダールタという名の普通の人間として、次の4つの真実=「四法印」を語った。仏教徒とは、これらを受け入れた者のことをいう。


組み合わせによって成り立つすべてのものは無常である


万物は組み合わせで成り立っており、相互に依存し、変化する。そして、無常は死ではなく、変化である。万物が無常であることを覚えていれば、憶測や信念、価値観にとらわれにくくなり、希望や絶望に振り回されない。


すべての感情は苦しみである


感情には必ず判断の要素がある。従って、すべての感情は一種の偏見であり、誤解に基づくものである。誤解は自己への執着から生まれるが、自己もまた1つの誤解であり、究極的には存在しない。それに気づかず自己に執着するという無知こそが、苦しみと痛みを生む。


すべてのものは本質的には存在しない


私たちが存在すると確信しているものはすべて、本質的には空である。私たちの日々の体験は、不確実さや不安であふれているが、そうした苦しみは思い込みから生まれた幻であり、実際には存在しない。


涅槃とは概念を超越したものである


シッダールタが自己への執着に打ち勝ち、到達した境地は、「涅槃」と呼ばれている。涅槃とは、思い込みからの解放を意味し、幸福や不幸といった二元的な概念のすべてを超越したものである。


投稿責任 社長

 
 
 

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