「LDK」っていつから言われ始めた?
- 9月5日
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家の間取りを示す「LDK(リビング、ダイニング、キッチン)」。日本ではキッチン(台所)が家の外側に置かれて暗く、寒い場所という時代が長く続き、通常の生活空間へ接近するまでに曲折があった。変化のきっかけの1つは大正デモクラシーだという。
台所は平安生まれ
日本で台所という言葉が生まれたのは平安時代だ。キッチン・バス工業会(東京・港)の清水洋一常務理事によると「語源は台盤所。貴族の食事を載せる盤を置く台があったことで、この名がついた」という。
神奈川大学の内田青蔵特任教授は「古代から料理の場は存在していたが、一般的に文献などで確認できるのは平安からだ」と解説する。
台盤所はまだ料理の場ではなかった。内田氏によると「食事の盛り付けなどを行う場で、料理場は厨(くりや)と呼ばれた」。
中世にかけて2つの部屋は一体化し、まとめて台所と呼ぶようになった。ただ、名称はともかく、そこで働く環境は長く過酷だった。
東京カンテイ(東京・品川)の井出武顧問は「江戸時代の農村などで台所は通常、家の最も外側にあった。板張りせず、土足で出入りする土間に大半の設備があって暗く、寒かった」と話す。
こんな場所にあった理由は主に2つ。
木造住宅が基本の時代、台所につきものの火と水はいずれも大敵だった。火事のリスクに加え、過剰な水気は害虫などの繁殖につながる。居住スペースからは遠ざけておく方がいい。
さらに当時、水は井戸や川からくみ上げ、火を使うにもまきを運ぶ必要があった。運搬を考えると屋外に近い台所が合理的だ。
もっとも、「合理性」の犠牲となったのは当時、主に家事を担った女性。暗く、底冷えする空間での作業負担は大きかったはずだ。
そんな台所に光が差したのが1910年代から20年代の大正デモクラシーの時期だ。
知識人を中心に生活改善の名の下、家の中で台所の合理化を目指す運動が盛り上がった。
清水さんは「大正時代の設計図案を見ると、きちんと床が張られ、居住空間にも近い明るい台所を作ろうという機運がよくわかる」と話す。
だが、残念ながら運動は本格的に家の間取りを変えるまでには至らなかった。
井出氏は「ガスなどの公共インフラ整備が不十分なうえ、女性に家事労働を強いる慣習を変えようとの意識も当時は大きくならなかった」と、挫折の理由を分析する。
抜本的な見直しは戦後、高度経済成長期を迎えてからだ。
共同住宅の整備が進み、戸建てより狭いスペースに、台所を含む家の各設備をコンパクトにまとめることになった。
西洋文化の流入から台所はキッチンと呼ばれるようになった。料理場だけではなく、テーブルや椅子も備えた食事室(ダイニング)も兼ね始める。
TV普及も後押し
ここが一家だんらんの場となり、家事の合間には一息をつける。このコンセプトは「戦後の新しい生活の象徴となって普及した」(内田氏)。この後、さらにDKとリビング(L)が一体化する契機をつくったのは「テレビ(TV)の普及だという説がある」。
テレビがあれば食事しながら番組を見て、食後もテレビの近くで、談笑する機会が増える。
それならDKとテレビがあるLの間には扉やふすまなど境は不要で、一体化した方が便利と考えられたという。
井出氏によれば「『LDK』という表記を初めて使ったのは1960年代に供給された共同住宅だとされるが、50年代にLDKの間取りは確立していたと考えられる」。
DKやLDKを中心に、ほかの部屋数を示す「2DK」「1LDK」といった表示は家族が暮らすイメージを描きやすく、共同住宅だけでなく、戸建てにも波及していった。
そんなLDKにも変化が訪れつつある。国勢調査で1980年と2020年を比べると、単独世帯は19.8%から38%へ急伸し、夫婦と子などの世帯割合は下がった。
井出氏は「ここがダイニング、あちらはリビングといったルールは複数で暮らすからこそ意味があり、単独世帯は重視しない」と分析する。
確かに気ままな1人暮らしなら、食べる、寝る、くつろぐなどは好きな場所で自由に行えばよく、部屋のルールは不要かもしれない。
では今後、部屋の用途の区分けが曖昧になっていくのだろうか。各部屋を勝手気ままに使えるだけで支持されるとは限らないという指摘もある。
内田氏は「単身者も他人と気軽に交流できる、家の外側にも開かれ、全く新しい間取りが求められると思う」。
家の外側にあった台所が家の中心へ移ると過去に想像できた人は少なかったはずだ。
生活の基盤である家の変化は時間がかかるものの一度、起きればその波は大きい。遠い未来、今の常識では想像もつかない間取りで人は暮らしているかもしれない。
投稿責任 社長




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